Autoscopy

子供の頃から、知人が見知らぬ場所で私を見たという話を耳にする事が幾度かあった。「ドッペルゲンガーか?」などと幼い頃の自分は空想していたが、あまりにもその証言が多かったため、そのうちにそれらは分身でも何でもなく、単に人々が私の顔についてとても曖昧に記憶しているせいで面影が似た人を私と誤認しているのだろうという考えに行きついていた。

その体験をもとに「人々にとって曖昧な存在」である自分を用いてさまざまな人物に変身し、また自分自身にこだわらず、同じ手法で友人達も被写体として撮影をしてきた。

私と友人達が被写体となっている作品達を見た人はよく「これらはすべて貴方ですか?」と問う。人種や性別、顔の作りも違うのに人々がそのように問うのは、やはり顔の認識や記憶というものが非常に曖昧であるからではないだろうか。

ほかにも理由は考えられる。ポートレートの技術的な部分では毎日見て触る自分の顔が手本である。日頃自分の顔に施すメイクを友人に施し、撮影後の修正においては、友人の顔であっても解剖学的な狂いがないか確認するために自分の顔を鏡で見ながら行なう。モニター上の彼らを見つめながらペンタブを動かし続けると次第に彼らの顔に私の遺伝子が組み込まれていくように、彼らがだんだんと自分のように、または兄 弟か肉親のように思えてくる。言葉に表わせないルールのようなものが私の手を動かし、みるみる自分自身の面影が被写体に溶け込んでいくのを感じる。赤の他人でさえも自分のように思えてきてしまう現象をAutoscopy と云うらしい。ドッペルゲンガーも然り、そこには居ないはずの存在を見てしまうのは心理現象の一種であるそうだ。今回の作品の中には、私自身は存在しない。しかし、鑑賞者は私を見ずして、私の面影に触れる。それらもまたセルフポートレートと呼べるのではないか。

須藤絢乃


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