K・P・S(キヨウト・ホト・ソサエテ)は、1920年代に京都帝国大学の医学生であった後藤元彦を中心に設立された。1926年刊のアルス写真年鑑によると、設立は大正14年4月1日、会長後藤元彦、幹部松居南陽、兒玉刀水、林湖屯とある。K・P・Sの活動は、戦前からフォトタイムス、アサヒカメラ等の写真雑誌で会員の作品が紹介されている。他メンバーは、河野龍太郎、小林祐史、高坂春光、浅沼守、岡本東洋、須原都智路、桂治三郎、奥田弘三郎、高田俊雄、佐藤辰三、植木昇等である。
            戦後は、1947年12月よりその活動を再開し、翌年から1949年までに大阪と京都で5回の展覧会を連続して開催し話題になった。1950年には東京展も実現している。当時写真雑誌に掲載された植木のエッセイによれば[1]、17名の会員が存在し、うち15名は商業写真家だったという。商業写真家として肖像写真を高いレベルで仕上げる会員が多かった。同時に抽象的な造形を作品の主題にした前衛的な仕事に特化した作家もいた。最後まで中核メンバーであった小林祐史、植木等も、それぞれ京都市内に先代から受け継いだ写真館を経営しており、写真技術も高いレベルのものを目指していた。小林祐史は、「われわれは技術家であり、芸術家であることを忘れてはならない。……お定まりの肖像を十年一日の如くくり返している臆病な営業専門家は新しい結論をアマチュアから暗示される多くの機会を見る。[2]」と述べ、高い技術と芸術家としての自由な発想両方を持つことが必要であることを説いた。
            植木も小林も、戦前は絵画風のいわゆる芸術写真や肖像写真を手がけていたが1930年代にはいり、抽象作品やフォトモンタージュを使った前衛的な仕事にシフトしていった。植木は、手彩色の抽象作品を多く手がけ、小林は、フォトモンタージュを得意とした。
           K・P・Sは、1960年代に自然消滅したとみられる[3]。1971年、植木と小林が中心になって京都写真芸術家協会を設立[4]、また、1969年植木昇を中心にして、写真集団「虹」が創立され現在に至っている。

(K.I.)

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[1] 植木昇「K・P・Sの旗」『写真と技術』15巻5号、1950年6月
[2] 小林祐史「写真家のカルチユア」『写真と技術』14巻2号、1949年2月
[3] 写真集団「虹」会員山口吉男へのインタビュー(聞き手: 石田克哉、2019年9月7日)による
[4] 同前


Further readings

金子隆一「K・P・Sの時代」『K・P・Sの時代 - 植木昇 小林祐史』MEM、2019年、4–8頁

K.P.S

植木昇

小林祐史


 

「K・P・S 植木昇 小林祐史 二人展」
会期|2019年9月14日-10月6日
会場|MEM

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