1898年、山口県徳山市に生まれる。9歳の頃に京都市で写真館をしていた叔父を頼って京都に移住する。
1918年、東京美術学校(現・東京藝術大学)臨時写真科に入学。大学卒業後は京都に戻り、叔父の小林写場を手伝う。後に写場を引き継ぎ小林祐史写場とする。大正末期より軽井沢に毎夏開いていた写真館では、尾崎行雄、バートランド・ラッセル、早川雪洲、新渡戸稲造等著名人の肖像写真を手がけた。
1925年に設立されたK・P・Sの中核メンバーとして植木昇らとともに積極的に作品制作を展開する。初期はいわゆる芸術写真のスタイルで、ブロムオイル等ピグメント印画法による風景やデフォルマシオンの技法による肖像写真を制作する。植木同様、芸術写真の系譜を汲んだ日本光画協会の会員としても活動した。
1930年代より『フォトタイムス』(フォトタイムス社)に作品を発表、論説も掲載する。同誌を通じて新興写真の思想と作風を共有する写真家や前衛画家と交流し、「旧来の芸術写真の疑問から解放され、自らの作画に光明を与えられた*」という。この頃から作風が芸術写真から実験的技法を駆使した前衛的なスタイルに変化していく。
戦後すぐ『フォトグラフィ』等の写真雑誌に作品を掲載。1948年、前衛芸術を指向する美術文化協会に入会し写真部を担当。東京と京都で協会の展覧会に出品する。また同協会の会員である小牧源太郎、阿部展也、北脇昇等前衛画家との交流は「前進的な芸術展開と写真の美学に新しい開眼をもたらした*」という。
1975年、前衛日本画家達によって設立されたパンリアル美術協会に写真作家として加入。同協会主催の定期展では主に大判の実験的なカラー写真を晩年まで発表していた。
1988年、京都にて没。
(K.I.)
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*自筆原稿より引用