三島喜美代

情報の化石

三島喜美代は、自分の作品を「情報の化石」と呼ぶ。

大阪の十三生まれ。高校生のときに油彩を始め独立美術協会の画家に師事する。高校卒業時に、独立美術協会の独立展に出展。後に夫となる画家の三島茂司の薫陶を受け、当初静物画など具象を描いていたが、徐々に抽象に移行していった。そのとき、茂司はアトリエモンターニュという画塾をしており、そこに喜美代も加わる。茂司は、戦前は伊藤継郎、戦後は吉原治良に師事していて、哲学にも詳しく京都大学の聴講生をしていたインテリだったという。ふたりとも身近に、吉原が創設した、具体美術協会の同世代の作家達がいて交流していたが、協会の一員になることはなかった。三島はカンヴァスで実験を始め、雑誌や新聞を絵にコラージュし始める。後にキャンヴァスにシルクスクリーンも併用。茂司が通っていた競馬の馬券も家にどんどん貯まっていたので、それもコラージュに利用したというエピソードがある。

コラージュで使っていた新聞がアトリエの床に丸まって転がっているのを目にとめ、彫刻のアイディアが浮かぶ。絵画コラージュに限界を感じていたこともあり、なにかおもしろい素材はないかと、ガラスやプラスチックなどで試作を始めた。ある日、焼き物だったら落としたら割れると気づき、こわれる緊張感をはらんだ彫刻はおもしろいのではと、陶で作る彫刻の研究を始め、1970-71年陶による新聞の立体作品を試作した。当時、各種新聞に加えファッション、芸能、グラフ誌等ありとあらゆる雑誌が大量に創刊され、人々は貪欲に最新情報をもとめた。新聞や雑誌が大量に捨てられ、情報は知識としてではなく一過性のエンターテイメントとして消費された。三島はそれに恐怖感を抱き、割れさえしなければ永遠に存在する陶の姿に新聞を生まれ変わらせた。それは同時に、壊れる儚いものとして大事に扱わなければいけない。そこがこの作品の重要な点であった。

1972年の銀座の村松画廊での個展で初めて陶による新聞の立体作品を出品する。次に、当時海外の現代美術を積極的に日本に紹介していた南画廊の志水楠男との出会いがあり、1974年に同画廊で個展を開催。床に陶でできた新聞などをごろごろ転がしていたところ、来客のなかにはまだ展示作業中だと誤解した人もいたという。80年頃、今度は陶で制作した新聞等の立体をスケールアップすることを思いつく。現在兵庫県立美術館の山村コレクションにはいっているのは、等身大の陶で制作された電柱や工事現場の柱である。また、巨大な新聞の立体作品は三島のトレードマークになった。

現在直島のベネッセハウスミュージアムの敷地内に設置されているのは、5mの高さに拡大したゴミ籠である。籠にはいっているのは、やはり陶でできた巨大ごみだ。三島は日常のミカン箱や、バナナの箱なども陶の作品として制作するので、日常品を本物そっくりにつくる陶芸家だと誤解されることもある。しかし、実際はゴミをめぐるさまざまな素材を使用し、サイズを変え、形式をかえた幅広い内容の仕事をしてきている。火山灰や、産業廃棄物を高温で処理することで建材として再生利用される溶融スラグ、煉瓦の素材や新聞紙そのもの等。三島の制作プロセスのなかでは、廃棄物も含めた様々な素材がリサイクルされ再生される過程も取り込まれ、そのなかで作品が生まれていく。溶融スラグで制作された立体作品のなかには、産業廃棄物をそっくりに再現したものもある。人間の欲望と功利主義が生み出したものが朽ちてゴミになっていく過程のなかから素材を拾い上げ制作し続けてきた。2020年に開催されたMEMでの新作展では、90年代に火山灰で制作された作品が、廃棄された車の部品等と融合し新しい立体コラージュやレリーフ作品として生まれ変わった。

三島の土岐市にある広い敷地を持つアトリエでは、長年収集し堆積しているありとあらゆるゴミが、時を経て芸術作品として甦るのを待っている。

(K.I.)

 

インタビュー動画
「ごみと美術のあいだ 1」
[2019年収録、聞き手:島敦彦(国立国際美術館館長)]

 

「ごみと美術のあいだ 2」
[2020年収録、聞き手:石田克哉(MEM)]


Exhibitions
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「Early Works」
2017年10月5日-11月7日

DM

「三島茂司 三島喜美代 二人展」
2018年3月24日-4月15日

「三島喜美代展」
2020年3月14日-4月12日

「三島喜美代展|パピエ・コレ」
2021年9月21日-10月6日


Works

Further readings
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