(1905年-1974年)
大阪府に生まれる。1928年、東京美術学校西洋画科に入学、藤島武二の下で学ぶ。
1932年に同校卒業後関西に戻り兵庫県武庫郡今津町(今の西宮市今津)で自宅アトリエを構え、写真作品を制作し始める。同時期、丹平写真倶楽部に入る。他にも、德田誠一郎等がやっていた昭影会にも属していた。自宅アトリエで、丹平写真倶楽部のヌード撮影会をしている様子が残っている。
20世紀初頭フランスとイタリアで西洋絵画を学んだ藤島に学んだことから、画家として受けた教育はアカデミックなものであったと思われる。しかし、写真作品は、フォトグラムやフォトモンタージュ等当時では最先端の技術を使った前衛的なものであった。ガラス乾板に直接絵を描いて印画紙に焼き付ける手法を「フォトパンチュール」と名付けているのは画家ならではのことと言える。
特に、1930年代後半から太平洋戦争が始まるまでの期間に、多くの実験的な作品を残している。多重露光、デフォルメ、ソラリゼーション、フォトモンタージュ等様々な技法を駆使し、写真というメディアの可能性を貪欲に追求している姿勢がうかがわれる。特に女性ヌード、実験用具や、レンズ、鏡、貝などをモチーフにした一連の作品が突出している。
また、1941年に神戸に滞在していたユダヤ人難民を撮影したドキュメンタリー「流氓ユダヤ」も知られている。同シリーズは、椎原の他に、丹平写真倶楽部の安井仲治、川崎亀太郎、河野徹、田淵銀芳、手塚粲が撮影し世界的にも戦時下の海外でのユダヤ人難民の記録として貴重な仕事である。
椎原作品は、東京国立近代美術館、東京都写真美術館、兵庫県立美術館、ゲティ美術館、ニューヨーク近代美術館、ヒューストン美術館、アート・インスティテュート・オブ・シカゴに収蔵されている。作品集として、『Osamu Shiihara』(Only Photography、2016年)、『椎原治』(日本芸術写真協会、2018年)。