大阪府三島郡岸部村(現・吹田市岸部北)に生まれる。大阪市立東商業高等学校卒業後、山口銀行(後の三和銀行)に入行。1935年より三和写真同好会に属する。
1930年に丹平写真倶楽部と全関西写真連盟に入会。日本大写真サロンなどで入選を重ねる。
丹平写真倶楽部、三和写真同好会主催の定期的な展覧会に加え、国際サロン展等にも出品した。
フォトグラムによる写真表現を追求し、屋外で採取した植物や生き物などを用いた作品に特徴がある。戦前、写真雑誌『カメラクラブ』[1]、『写真文化』[2]等にフォトグラム技法について寄稿している。それによれば、制作時に用いる素材として、不透明な物と対比させ、半透明や透明な素材、例えば花、木の葉、紙、布、織物類、不透明ガラス、セロファン、ガラス器具などを用いることで総合的な効果を出していると解説している。
また、丹平写真倶楽部が出版した写真集『光』に収録された作品について、以下のように述べている[3]。
「フォートグラムを光の構成と言えば一言に尽きる。説明を加えればくどくなっていたづらな道中談義に過ぎぬ。光の屈折が感光板に描く微妙な種々相は数えきれぬ天文学的数字だ。唯この光の直接的な美しさを如何に立体的に取り扱うかと言うのがフォートグラムの生命だと信ずる。立体には辺があり、面あり、量がある。平面には量がない。量は巾深に通ずる。立体を欠く時は図案的となる」
音納の制作活動は主に戦前であったが、このように、一貫してフォトグラムを専門にし、その代表的な作家として知られていた。
(K.I.)
参考文献:
『日本の写真家』日外アソシエーツ、2005年
『日本近代写真の成立と展開』展覧会カタログ、東京都写真美術館、1995年
『光』丹平写真倶楽部、1940年
[1] 音納捨三「フォトグラムの入門」『カメラクラブ』アルス、1936年11月号
[2] 音納捨三「フォトグラムの作り方」『写真文化』アルス、1941年、11月号
[3] 『光』丹平写真倶楽部、1940年