セルフ・ポートレイト(1930年)
福岡県柳川市に生まれる。1915年に東京美術学校(現・東京藝術大学)臨時写真科に第一期生として入学し、1918年主席で卒業。同年11月農商務省海外実業練習生として渡米。カリフォルニア州立大学で学び、その後ニューヨークへ移転、菊地東陽の写真館で助手として働く。1921年、独立してラカン・スタジオを開設。ニューヨークでは、舞踏家や画家等芸術家達と交流し、多くの舞台写真やポートレイトを撮影した。またマンハッタンの建物や街角、セントラルパークの写真も多数のこしている。その交流のなかで知り合った、インドの舞踏家ニョタ・インニョカに渡仏を勧められる。
1926年、中山はラカン・スタジオを売却して、妻の正子と一緒にパリに移住。当地に住んでいた藤田嗣治や海老原喜之助、またマン・レイ、キキなど、当時ベルエポックのパリに集まった芸術家達と交流を持ったと言われる。また、未来派の作家エンリコ・プランポリーニと知り合い、彼の演劇の舞台も撮影した。1927年、シベリア鉄道で大陸を横断して帰国。1929年、芦屋にパリのアトリエを模したスタジオを開設する。1930年、ハナヤ勘兵衛、紅谷吉之助らと芦屋カメラクラブを設立。大阪の丹平写真倶楽部等と並び、関西の新興写真運動の中心の一つとなる。また、朝日新聞主催第1回国際広告写真展で、《福助足袋》が一等で受賞する。1936年には、神戸大丸百貨店の写真室を任される。
中山は独自の撮影装置を考案し、身の回りの道具や、植物や貝、蝶など自然のなかで得た素材を使って構成した作品を得意とした。暗室での操作も含め、複雑な工程を経て1枚の写真を完成させた。
1938年1月の『カメラクラブ』に「デコレイション」と題し寄稿しているが、そのなかでこのように述べている。
「私は美しいものが好きだ。運悪るく、美しいものに出逢はなかった時には、デツチあげても、美しいものに作り上げたい。実際、写真は自然の一部分ではないのだ自然の一部分を切り取ったのではない・・・・・・1枚の写真に過ぎないのだ」
1932年、野島康三の呼びかけで、木村伊兵衛とともに写真芸術の紹介に特化した『光画』の創刊に参加。一年半ほどの間に、全18号が刊行された。中山は編集に情熱を傾け、自身も多くの作品を誌面で発表した。
多くの写真家が国家宣伝のために動員された戦時中、木村とともに満州へ派遣されたことがあったが、一切記録写真を撮らずに帰国した中山の逸話を、木村伊兵衛が戦後伝えている。反骨の写真家でもあった。1949年脳出血のため53歳で急逝する。
(K.I.)
参考文献:
『中山岩太展』展覧会カタログ、芦屋市立美術博物館、松濤美術館、1996年
『日本写真家辞典』淡交社、2000年
『中山岩太』淡交社、2003年